八幡町歴史あれこれ(3) 産業編


毛せん

 文化元年(1804)、幕府は、毛せんの国産を計画した。長崎奉行成瀬因幡守は唐船主に対して、毛せん打立用意の原料羊毛と細工道具それに数頭の綿羊を持ち渡るよう依頼した。羊毛飼育の地は浦上村と決まり、毛せん製造の技術者として趙大本、洪文和の二人が招かれ、毛せん製造の伝習が始まった。細工場は八幡町水神社の境内。製造の順序、器具一切は長崎会所産業調掛帯屋次郎八、徳岡元三郎の両人がつぶさに図に書き奉行所に提出した。

 この事業は綿羊が斃死したため廃絶したが、わが国毛せん製造の始まりであった。

 

 

亀山焼開窯

 文化4年(1807)頃、八幡町の吉川要五郎、大神甚五平、万屋治平の3人がオランダ人に売る水瓶製造の窯を長崎村伊良林郷字桓根山に開いた。長崎奉行も地元産業奨励のため融資したが経営上の困難が伴い文化11年(1814)に廃業することになり借金返済と失業者を出さないために大神甚五平が一人であとを引きうけた。水瓶つくりをやめ、南京染付を写した上手の白磁染付を焼くことに成功した。この上手品には特別上等の中国輸入の花呉須という薬が使われている。また、中国から取り寄せた土を使って、蘇州土亀山という作品も世に知られた。当時は木下逸雲(八幡町乙名・南画家)などが支援したので長崎来遊の文人墨客の下絵も多く、高く評価された。しかし、事業としては失敗に終わり、慶応元年(1865)、名陶亀山焼は廃窯となった。

 また、慶応元年(1865)坂本竜馬が同志を伴い来崎し、住居をこの窯跡に構え、亀山社中を組織し討幕の政治活動と並行し海運、貿易の事業を興した。

 

 

自転車

 長崎市に現れたのは明治19年(1886)外人が丸ゴム輪つき黒塗りの自転車で市内を乗り回したのがはじまりとされている。明治32年(1899)、自転車取締規則が県から出ているので、このころには一般に使用されていたと思われる。大正9年(1920)には市内保有台数1850台となっており、現在のS東美付近が当時空地で、自転車の貸稽古屋があり、1時間20銭で盛業した。貸自転車屋はのちに八幡町の八幡座(現あけのほし幼稚園)が建つ前の空地にも開業した。

 

 

 

公設市場

 大正8年(1919)12月、館内町と今下町に市が県費の補助を受け公設市場を設置し、指定商人に日常生活必需品の販売を行わせた。翌、大正9年12月に八幡町にも開設した。場所は阿弥陀橋と高麗橋間の中島川河川敷から基礎を建ち上げ道路沿いに設置され、その後解体された後も昭和57年長崎大水害前まではその基礎柱と梁まで残っていたと記憶している。また、幼い頃の記憶として、この梁から投網をしていたおじさん(小池会長の祖父と判明)がいたのを覚えている。当時の中島川はまだ水量が豊富だったのだろう。

                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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