八幡町の変遷


  長崎は、1500年代の将軍足利氏の時代には、肥前国彼杵郡長崎村といっており中心は現桜馬場・夫婦川界隈であった。

  元亀元年(1570年)、長崎港がポルトガルとの国際貿易港として開かれた翌年の元亀2年(1571年)に内町6町が建てられた。現在の県庁と市役所を結ぶ高台の場所である。その後、人口の増加と共に新しい町が形成されていった。慶長2年(1597年)には、外町第1号群として4町が建設された。ポルトガルからオランダに代わった貿易が長崎港一港に制限された寛永18年(1641年)には長崎市街は、74ヵ町(内町25ヵ町、外町49ヵ町)に発展している。内町とは、公領内にできた6町を含む長崎の最初の町で地租免除の特典があった。外町とは、内町の外の町で地子課税があり、初めは代官のち奉行の管轄地であった。その後、長崎は発展と統廃合を重ね、寛文12年(1672年)の町界町名変更を経て延宝4年(1676年)には、内町26町外町54町の計80町と長崎村13郷、7ヵ村で形成されていた。以後、長崎市街の内町、外町の区別は、元禄12年(1699年)に廃止されたものの総数80町は、明治維新まで変更はなかった。


  八幡町は、外町に位置し、中島川の水を利用した紙漉き業者が多く住んでいた紙屋町の上流に紙の需要増に伴い紙屋の町を新しく開いた。最初の町を本紙屋町、新しくできた町を新紙屋町と呼ぶようになった。この新紙屋町は、延宝8年(1680年)に町内にある八幡神社にちなんで、八幡町と改めたが、延享のころは、ハチマン町と呼ばれていた。昭和41年11月の町界町名変更で現在の八幡町の一部となり、現在に至っている。

 

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