八幡町歴史あれこれ(2) 人物編


威福院高順

長崎の町がまだ、キリシタン勢力が強く残っていた元和9年(1623)修験者・青木賢清が長崎の士公文九郎左衛門から諏訪の祭祀を譲り受け、奉行や代官の支援で寛永2年(1625)に諏訪社殿を建立した。賢清は、いろんな人達と出会い交流を重ねながら諏訪の再建を目指したが、その中に八幡町に天満宮を祀っていた修験者・威福院高順がいた。高順は同じ修験者でも派が違っていたことに加え高齢であったため、賢清の諏訪再建には行動を共にしなかったが協力しそうな人々の情報などを提供している。八幡町は、諏訪神社の歴史において大変意味合いがあるとともに当時から修験者・山伏に縁があった町である。

 

 

早水冶部

諏訪神社の御神事能が寛永12年(1635)から始まったが、この能役者は早水冶部といいその子孫も代々能太夫を務め、拝領地は八幡町で今のあけのほし幼稚園のある場所だったそうである。また、この早水氏は、音羽、高尾が奉納した小舞の師匠でもあったと伝えられている。

 

木下逸雲

1799〜1866.長崎八幡町生れ。

八幡町乙名を勤めた木下逸雲の名は相宰。

南画家として著名である。通称は志賀之助。兄の嗣子隆衡が成人すると家を譲り、隠居して画業に専念した。はじめ、石崎融思に学びのち清人江稼圃に南宋画を学んだ。日高鉄翁、三浦梧門と共に長崎三画人と言われた。画業のほかに医術、茶道、管弦などに通じ長崎の代表的な文化人であった。画は山水人物花鳥を善くし水墨、淡彩、着色等で密画から大津絵に至るまで多作であった。また、亀山焼の復興にも尽力した。住まいは、中通り高麗橋手前の八幡町公民館に至る中島川沿いの一角にあった。

七代目市川団十郎

天保5年(1834)七代目市川団十郎がはじめて九州入りし博多、筑前甘木の興行を終え、新春早々に同勢60余人とともに意気揚々と長崎に乗り込み八幡町の定芝居小屋で上演した。「扇屋熊谷」と「幡随院長兵衛」が大当たりをとったという。

 

 

山崎重吉

諏訪神社でのくんち奉納の盛り上げ役である今の白トッポ組は、明治時代に現れたそうで、それ以前の明治初期には、岩田組という顔役が長坂を仕切っていた。その中心のひとりに八幡町在住の山崎重吉なる人物がいた。

 

 

永島正一

 大正元年(1912)〜平成9年(1997).元長崎県立図書館長。郷土史家。NBC長崎放送開局以来、ラジオで郷土史をつづる「長崎ものしり手帳」を担当。放送回数一万回に及び、この間、民放祭金賞二回、ギャラクシー賞を受賞。ほかに長崎新聞文化賞、長崎県民表彰などを受けている。また、毎年「くんち」の実況中継の解説も担当。生家が八幡町で、現在の八幡町の傘鉾は、永島家の一手持ちであったものを町が引き継いでいる。生家は現存しており、永島先生曰く、庭見せの時には、長崎一丈の高い傘鉾を飾るため、通りに面する見せの間の天井を外せるように工夫してあった。また、手入れが行き届いた奥庭があり、今では数少なくなった長崎の町家・商家のひとつである。現在でも103日のくんち庭見せでは場所をお借りしている。

 

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